top of page
二、​紺中夢
_________
____

——————————彼女は所謂、僕の教育係だった。外見にそぐわずちょっと荒っぽくて、困惑することもあったが、肝心なことは簡潔かつ丁寧におしえてくれた。

それからも先輩との交流は続き、お互いの愚痴を聞き合う仲になった。同僚よりも多分話してたと思う。というかそのころにはもう同僚と話してる感覚だったので、ため口がぽろっと漏れて笑われる、もしくはどつかれていた。

やがて昼食も一緒に食べに行くようになり、相変わらずの愚痴や趣味、家族の事、学生時代の事などの話に水をやって花を咲かせた。川辺の香りを含んだ春風のような恋をして、心を温め合った。

四度目のデートの帰り際、水族館の駐車場で告白して付き合うことになった。

喧嘩も何度もしたが、そこで焼き肉を始めるような人だった。そういうところが好きだった。

一年が経って、再来週には僕の住んでいるアパートで同棲を始めることになっていた。スマートフォンの中には、二人が大好きなアーティストのライブチケット。日付は来月下旬。夏の終わり。彼女は秋物の服が大好きなので、明後日の休みにライブの時着ていく服を買いに行こうときめていた。

ただただそうやって、橙色の日々がこれからも続くと信じて疑わなかった。ずっと穏やかに流れていくはずだった。そのはずだった。

何度も僕はアパートへ足を運んだのだが、僕と会ってはくれなかった。インターホンにも反応しない。

LINEも、既読は着くものの返信は一切ない。

『発症者と親しければ親しいほど忘れられやすい』

そういう噂がネット上で蔓延り、年月が過ぎるにつれその噂はれっきとした〝症状″へと、すくすく育っていった。

ブロックされたのだろう。やがて既読すらつかなくなり、電話も繋がらなくなった。彼女との連絡手段が順調に消えていく。もう家にも居ないみたいだ。共通の友達に藁にも縋る思いで電話を入れる。繋がった。

「なぁ、あの、俺、あの、彼女が」

頭も舌も上手く回らなかった。自分がいかに動揺してるかようやく気付いた。

「うん。あのね」

友達は優しく、一切の埃も立てないような静かな声で、彼女が僕を完全に忘れた事を伝えてくれた。

受話器越しにそっと置かれた事実は、何も言わずに僕を見つめていた。

その時僕は何故か安心を覚えた。誰かがそう言ってくれるのを待っていたのだと思う。探している人はもう居ないよ、もういいよ、無駄だよ、という証拠が欲しかったんだ。一切の理性を失った「そんなはずはない」とプラカードを掲げて一人で行進している自分の首をへし折る手に、不思議なくらい力が入らなかったから。

それから、彼女は何も言わなかった。5分ほど静寂と会話した後、示し合わせたかのように「じゃあ、」と同時に言って電話を切った。

もう少し厚着してくるんだった。春にしては冷たい風が路地裏から集まってきて、こちらに吹き付けてくる。そのせいで、はらはらと僕の目から花びらが次々と落ちる。

そうだよな、相手からしたら知らないやつなのに住所もLINEも知られてて、おまけに彼氏だとか言い出す始末だもんな。知り合いとかそういう次元じゃない。赤の他人なのだ。

「治療可能で、専門機関もある」という噂もたっているが、完治したという記事やニュースを見たことがないし、発症した政治家やプロのミュージシャン、メダリストたちが一人も復帰していないというのは、つまりそういう事なのだろう。

人はいつだって縋るものを必要とする。形を問わず、自分以外のなにか信じられるものを。

そうしないと生きられないのにも関わらず、あらゆる不可抗力に切り刻まれて蝕まれて心が順調に荒み、ささくれにまみれ、あかぎれだらけになり膿を垂れ流し、遂には「自分以外信じられない」という思考を信じ始める。そして唯一信じられるはずのそれすら無意識のうちに疑って、気付かないうちに心が凍り付いてしまう。他人の価値観との適度な摩擦があってこそ人の形を保ってられるのだと気付いて取り返そうと思い立った頃には、もう動くことすらままならなくなっているのだ。

今こうして紺中夢が広がっているのは、忘れることで心に無理やり心に隙間を作って不可抗力に耐えようとして進化した結果なのかもしれない​。

心が空っぽになって一週間が経った。

ベッドに死んだように横たわっている。視界に映る全てのものがのっぺりとしている。窓の外の車の走る音が何度も僕のことを嘲笑う。「ふざけるな」という苛立ちも何も生まれなかった。

頭のすぐ横で、僕と同じく死んだように横たわっているスマホが身震いする。鉛よりも重い腕を持ち上げて、瞼を十秒閉じ、深呼吸よりも深く息をして、ようやく画面を見つめる準備が整った。

この前の、共通の友達の彼女からだった。前回と違って非常に動揺しているようだった。​どうしたのかと聞いても泣きじゃくるばかりで、三回聞き直さないと内容が分からなかった。

やっと聞き取れた言葉の意味はよく分からなかった、ふりをしていた。

取り返しのつかないほどに色が深まった絶望が、血管を通って全身を巡る。どんな細い毛細血管も見逃さず、重箱の隅を楊枝でほじくるようにねめつけては蹂躙する。

壊れたように足が動き出す。何も持たないで家を飛び出る。足がまともに言う事を聞かないせいで、暴れるように街を走った。

『〇〇が自殺したの』

何度も転びながら彼女の家に向かう。こんな事信じる訳にはいかないのに、僕がこうやって死に物狂いで走ることによってそれは肯定されてゆくように感じた。自分で自分にとどめを刺しているように感じた。その矛盾がさらに脈を早くして、呼吸をするたびに嗚咽が漏れる。息が上手く吸えないせいでついには視界や揺れ始める。

「今駆け付けたところで」なんて変に冷静になっている自分は、何度殴っても消えることはなかった。鼻血がどれだけ出ようが構わず殴り続けた。もう涎と涙と鼻血の区別すらつかなくなってきていた。それでも心の痛みを再現するには千里程遠かった。僕は彼女の痛みを想像するのをやめた。それは彼女の死を肯定するとともに、「想像すれば一かけらでも汲み取れるものだ」と言っているようなものだからだ。歪んでいるだろうか。そうか、心も冷え性になるんだな。

血が数十滴垂れたところで、彼女が住んでいるアパートが視界に入った。

友人が通報したのだろう、もうそこには警察や救急隊員が何人か来ていて、非日常の気配が充満していた。

空っぽが空っぽになって、身体が本格的に揺れ始めた。胃液が喉を逆さに伝う。まるで夢を見ている様だった。だからこの感覚は幸せだった。これは夢だ。ライブが楽しすぎて飲み過ぎて、変な夢を見ているのだろう。今頃僕はホテルのフカフカのベッドの上で、薄着の彼女と手を繋いで眠っているに違いない。目が覚めたらすっかり太陽が昇っていて、「次水族館に行くんでしょ、早く準備して!」とウキウキの彼女の笑顔を見るのだろう。二日酔いのはずなのに不思議と体が軽い。そして僕は、彼女に告白した場所と同じ駐車場で結婚指輪を渡すのだ。  

アスファルトに倒れても、夢が覚めることはなかった。

頭に鈍痛が広がり、クレッシェンド。鼓動はプレスト。涙が地面にスタッカート、呼吸はスピッカート。

そばにいた警察官の「大丈夫ですか?」という声が、ひどく冷徹な言葉に聞こえた。

bottom of page