二、夜の散歩
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夏の事だった。彼女が「紺中夢(こんちゅうむ)」を発症して数日経った頃、僕は何度も病院に行くように説得した。
紺中夢は五年前、黒い流れ星が頻繁に流れるようになってから流行し始めた病だ。
夢の中で誰かと海辺まで行き、海と夜空が反転した中へ沈んでいく、もしくはそれを見る。そうした夢を重ねる度に周りの人間との記憶が消えていき、社会に馴染めなくなったり、傷害、殺人、自殺などの事故や事件を引き起こす。ネット相談窓口や医療サービスも充実しているので、本人が希望すればいつでも治療を受けられるのだが、彼女は頑なにそれを拒んでいる。
「なんでそんなに」
「お願いだからその話はもうしないで」
彼女は決して激したりせず、できるだけ冷静に、かつ鋼鉄より固い意志を持っていつもこう言う。
僕のことを忘れて欲しくないし、彼女に辛い思いをして欲しくない。どんどん忘れていく彼女を見ているのがとにかく苦しい。だから治療してほしいだなんて、ただの下らないエゴだろうか。
『そういえばさ、』
夜になると彼女は、どれだけ言い争った後でも何事もなかったかのように僕に思い付きの夜更かしを勧めてくる。別の部屋で寝ているので、ドアを開けていても少し声を張らないと会話ができない。それが面倒で、通話することが多かった。
『ねぇ、そろそろ眠くなってきたんだけどもう寝ていい?』
『え、だめ』
『おやすみたいんだけど俺』
『何それ笑 それよりさ、コンビニ行こうよ、コンビニ』
こうやっていつも、学校の授業以外は引きこもっている僕を連れ出すのだった。
ちんたら準備をする僕に合わせて、彼女もちんたら簡単な支度をする。
「じゃ、いつも通りコンビニまで競争ね」
僕が言う。もれなく二人とも運動不足なので、傍から見たらさぞ滑稽だろうと思う。
いつもほぼ同着で、今にも死にそうなくらい息が切れる。といってもたったの300mだ。ドロドロに疲れた僕を見て、彼女は大声で笑う。コンビニは田んぼに囲まれており、その声は涼しげにどこまでも飛んでいきそうだった。
その顔があまりにも素敵で、ずっと見ていたいとすら思う。それは美しい絵画を見た時や、思いがけないところで出会った魅力的な旋律を愛でる時の感覚に似ていた。
こうしていつもコンビニへ、時には競歩で、または早歩きで、そしてうさぎ跳びで(もちろん10mでギブアップした)、缶コーヒーを買いに行く。
「ココアでもいいじゃん」と僕がいつか反論した時には、「私の前世はコーヒーだから」などと理解不能な答弁を繰り出してきたので、諦めた。
それからはいつも通りコンビニから徒歩5分で着く海辺へ向かう。
いつの間にかできていた公園のブランコに二人とも座って、懐かしさを掘り起こす。
高校の時に付き合っていた彼氏や彼女の文句。当時は言えなかった、実家での些細な悩み。大量に出ていた高校の課題への猛烈な抗議。登校中、ランドセルの上にアジが数匹落ちてきた話。高一の時初めて作った曲の強制アカペラ歌唱。小学校以来連絡が取れていなかった親友、偶然バイト先で再開した話。
時々挟まれる、程よい沈黙。
気が付いたら息が白くなって、オリオン座たちが目の前に大きく迫ってきていた。
ふたご座、ぎょしゃ座、オリオン座に囲まれた放射点から、無数の流れ星が降ってくる。
「もうすぐだね」
彼女がそう言って、飲み終わったノンカフェインの缶コーヒーを足元に置き、ブランコを立ち漕ぎし始めた。僕は違和感に気付いていたが、もう遅かった。
やがて濃花色(こいはないろ)の夜空が水平線と溶け合い、オリオン座流星群や無数の星のあやとりが海の中へ音もなく流れ込んでいった。寝息のような波の音が、空だった方向から降ってくる。
僕も彼女を真似て立ち漕ぎをする。コーヒーはまだ飲み終わっていなかった。
「行かなきゃ」
僕が安定して漕げるようになったころに彼女がブランコから降りて、夜空と化した海へ吸い付くようにして降りる。
「行かないで」という情けない声は、彼女に届くはずもなく星に吸い込まれて消えた。
振り返らずに沈んでいく背中を、僕はただ無表情で眺めることしかできなかった。
伸ばしかけた細い腕は、力が抜けて肩からぶら下がっている。
そこで体が内側から引っ張られる。視界が暗くなる。


