
三、日常
________
____
現実離れしたスピードで日常は崩れ去り、それと同じ速さで容赦なく現実が押し付けられる。平等が優しく肩をねじ切る。世界から乱雑にはじき出されないように僕はそれに馴染む。馴染めなくても、馴染んだふりをする。
休養期間も終わり、いつも通り僕は出社して仕事をして、帰路に着き、食事や家事を済ませて趣味と肩を組んで眠りに就く。今日は新発売のビールを箱買いしてみたりした。何の変哲もないただの一日だ。
夢に出てくる彼女の声や顔はみるみるうちに掠れていき、「なんとなく何か忘れた気がする」と思うようになっていた。友人から当時の話を聞いても他人事にしか思えなかった。身に覚えのない事で周りから心配されるのもなんだか気持ちの悪い感じだった。
夕方に小説を読んでいたら、いつの間にか20時を過ぎてしまっていた。だらしなく姿勢を崩した涙をしまって、ソファから立ち上がってひんやりとした窓を開ける。
ここ最近のこのあたりの気候はごちゃまぜになっていて、カレンダーはまるで役に立たない。彼が言うには今は八月下旬らしいのだが、今朝の季節予報では今週いっぱいは10月だという。夜には12月並みに冷え込む日もあるみたいなので、昨日冬用の衣装ケースを整理したところだ。そして愉快なことに、天体までもいかれているみたいで、今週はオリオン座流星群が見れるというではないか。お酒を買っておいてよかった。最高のつまみになりそうだ。
「もうその話はしないで」
いつもふざけ合っている隣人が、最近よく言い争っている。
外の空気は澄んでいて、肺一杯に月の匂いを送ってみるが、昔のように満たされた感覚にはならなかった。
深夜1時頃、隣の部屋の窓が空いた。僕がさっきしたように、グッと窓から身を乗り出して空気を吸い込んでいた。彼も残念そうにため息を吐く。
「どうも、寝れないの。それとも流星群を待って?」
「はい、なんだか寝れなくて。急なんですけど、聞いてもらってもいいですか」
街灯と月明りでも分かるくらいのクマを夜に晒して、俯きながら言葉を放り投げる。僕はというと、三本目のビールを開けながら月を眺めて、時々シリウスに浮気する。
「もちろん。彼女さんの事?最近よく言い争ってるみたいだけど」
「ええ、まぁそんなところです。彼女っていうか親友なんですけどね」
「そうだったな」
眠れない夜、こうやって隣人と話すことがある。窓から身を乗り出して変な恰好のまま話すこともある。どっちが長く保てるか競って、いっつもあっちが負ける。
変な色をした月の香りに包まれながら、最近彼女の様子がおかしいのだと話す隣人の声に耳を傾ける。
「でも治療を拒むる理由、いくつか思い当たる節があるんです。だから彼女の気持ちは尊重したいけど、そうしたら、そうしたら、もしかしたらもしかするかもしれないじゃないですか。どっちを選んでも苦しむことになるんです、、、それで、色々考えて、なんだか眠るのが怖くなって」
ゴオオオオオオオオ、と黒い流れ星がのろのろと月の前を横切る。会話の終わりを告げるようだった。
明ける気配を見せない、粘度の高い夜を超えるに値する一縷の光が彼女に刺せば助かるのか。刺したとして、それを掴む体力さえ残ってないとしたら。これは言えないが、彼女はきっと、最愛の君に頼ることも諦めているかもしれない。決心したのかもしれない。
何も言えず、僕はビールを飲み干した。あの後彼はちゃんと眠れたのだろうか。
いつもの生活を組み立てていく。夢の所為でぐちゃぐちゃに崩された(らしい)とは思えないような穏やかさが、この部屋に満ち満ちている。以前と変わったところといえば、ベクシンスキの画集が急に好きになったことくらいだろうか。
夏風が春を焦がして、ピアニッシモの秋がそれを吸い込んで、吐き出されたのは微かに虚しさをはらんだ冬の香りだった。今日もまた窓から身を乗り出して、いつものように月の匂いを嗅ぐ。星にくるまれたような不思議な感覚も相まって、平穏が戻ってきたことを改めて実感する。
やけに寒いな。そう独り言ちると、口からわたあめが溢れて星のあやとりを曇らせたのだった。
スマホにライブの電子チケットがなぜか二人分ある。友達でも誘って行くか。
黒い流れ星は、今日も轟音で月の前をわざと横切る。その後ろについていくように流れる星は、橙の糸を引いていた。
その夜、僕は夢を見た。大好きな人とすぐそこの海へ行き、誰もいない海の家に怖がりながら忍び込んで、来る途中にコンビニで買っておいたお酒で乾杯する。
顔を寄せ合ってキスをして、取るに足らない会話を砂浜にパラパラと撒いて、指を絡ませる。芯まで冷えた心がこんなにも温かい。
やがて夜空たちが海水浴をし出して、それと同時に海たちが天体浴を始める。あぁ、行かないと。
愛おしい手を放して、僕は泣きじゃくりながら夜空へと沈んでゆく。振り向こうとするが、身体が乗っ取られたみたいにいう事を聞かない。
ごめん、ありがとう。ごめんね。ありがとう。愛してる。愛してる。
オリオン座流星群が僕の横を通り過ぎる。それにしっかり摑まって、どこまでも深く沈んでいく。
じゃあね。ばいばい。
目が覚めて、軽くなった心になぜか喜びを感じていた。まだ真夜中だったので、いつもの癖で窓から身を乗り出す。眠る前より何倍も星たちが輝いて見えた。星はこんなにも瞬いているのか。
スッと一筋の白い流れ星。とたんに流れ星の足跡が冷たくなり、鼻がつんとした。喉の奥が詰まって、息が上手く吸えない。
「おかしいな」
消えていく。端の方から、確実に消えていく。消えるにつれ、心が軽くなる。
そして遂に消えた。認めるわけにはいかない大きな快感と喜びが体中を巡る。同時に腐敗臭のする憎悪がいたるところから吹き出てくる。壁に頭や腕や足などを打ち付け、何度も嗚咽する。体のどこかから血が出ている。突然電池が切れたように動きが止まる。
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのか分からないまま、その場に倒れ込んでしばらくうずくまった。
何か失った。それだけが残って、それさえも明日には消えてしまうのだろう。
麗らかな風が通り過ぎる春の路地に置き去りにされた橙の日々は、誰に看取られろこともなく散っていった。その様はどの星座や流れ星よりも美しく、信じられない程の憂いを抱いていた。
そして深い青が揺れた頃、また誰かの日々が沈んでいき、「傍にいる」と誰かが言う。
なあ、そろそろ夢が覚めてもいい頃なんじゃないか。


