三、空想
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抜け殻が似合う暑い日、気が付いたらあの日を思い出している。そしてまた夢を見ては、ぼーっとしたような心地よい感覚に飲み込まれる。
近頃、夢の中の彼女の顔や声、存在感などが一層ぼんやりしてきている。深い眠りに就けているという事なのだろうか、それとも。
そんなことを思って時計を見ると、まだ1時半だった。そろそろ散歩に行かなくては。
傷だらけの身体を起こして、空のペットボトルに濁った水道水を注ぐ。そして服も着替えずに裸足で階段を降りて玄関を出る。ひんやりとしたアスファルトが足に食い込んで痛いが、多分今の僕にはそれくらいがお似合いだ。
誰も通らない道路の真ん中を歩く。何を考えるでもなく、ひたすら歩く。盛大なパレードもどうやら死んだようで、ガランと大きな音が響いていた。
この通りを一人で全力疾走した記憶がある。なんでそんなバカみたいなことをしたのか、理解に苦しむ。
コンビニを通り過ぎる。バス停の近くに、寂しそうで冷たい色の街灯が刺さっている。その真下には、白骨化して錆び切って、すっかり苔の住宅地になった自転車がいつまでも誰かの迎えを待っている。
天井を見上げると、おいしそうなオレンジの月と、隣に木星、オリオンのベテルギウスの左側に火星、少し迷って北極星。泣きながらほしめぐりの歌を口ずさむ。
気付けば4㎞くらい歩いていた。道路は無駄に広くなり、月が近づいて、亡くなった街灯も多くなる。
交差点の青白い明りがやけに眩しく見えた。シリウスがある、と寝ぼけた頭で考えていた。
後ろから浴びせられていたトラックのライトと走行音に気付かなかった。
ドッ————————————
という音でまた目が覚めた。
スマートフォンの画面を見ると2時半。何百回目か分からないため息を吐いて、ベッドの傍の窓から身を乗り出すようにして寄りかかると、なんだか星にくるまれたような心地になる。
月の匂いが少しずつ薄くなってきている。小学生の頃からこの匂いがたまらなく好きで、十五夜には必ずベランダに寝袋を持っていって寝ていたくらいだ。もう吸えないってくらい肺一杯に空気を吸い込むと、優しくなれるような白くキラキラふわふわした感覚が身体を巡る。そうすると数分で、一年で一番深い眠りに就くことができる。
黒い流れ星の騒音なんて気にならないくらいの、幸せな眠気。国民にとって大事な祭日「睡眠の日」のメインイベント、だった。
今日も淡い期待を片手にめっぱい夜風を吸ってみるも、やっぱり大したことなくて肩を落とす。
ふと気配を感じたので体を右に捩ると、隣人と目が合った。
「なに同じ事してんの」
彼が何のためらいもなく言う。
「思ったことすぐ言っちゃうタイプですか」
「え、言わないの?」
「いえ、んん、まぁ」
びっくりして咄嗟にどうでもいい言葉が口から滑り落ちる。不時着して機体は言うまでもなくボロボロで、救いようがない。トリアージするなら余裕で黒だ。
僕は身を乗り出すのをやめて、窓辺の壁に寄り掛かるくらいにした。彼はというと、依然として変な恰好で話し続けている。
「だいぶ前から物音ほとんどしてなかったけど、生きてたんだ」
なぜこの男はこんなにも馴れ馴れしいのか不思議に思ったが、まぁそういう人もいるか。
「えぇ、この通り何とか生きてます」
「そっか。そういや彼女元気にしてるの?最近見ないけど」
何のことを言っているのか分からないが、僕の学校の先輩の事だろうか。それかほとんど交流がない同級生たちの事か。
「ほら、一緒に住んでいたっぽい彼女。前に話してくれたじゃん?彼女じゃなくて親友だったっけか」
「そんな人 . . . 知り . . ませんけど」
一瞬誰かの面影のようなものがちらついた、ような気がするから、変な間が空いた。
「なに、え、覚えてないの?」
僕の記憶がおかしい感じ?とかなんとか向こうで独り言ちている。混乱しているのはこっちだ。何だろうか、切ない焦燥感がヒュッと心を引っ掻く。だがそれも一瞬で、きっと何でもないようなことだと安堵する。
冷蔵庫が不意にブーンと鳴って、僕は肩を思いっきり揺らして驚いた。それを見て彼がケタケタ笑っている。僕の舌打ちと家鳴りがハモる。
ひとしきり笑った後、彼はゆっくりと僕の方に向き直って神妙な面持ちで言う。
「君も彼女も、きっと夢を見たんだろう」
「夢 . . .」
「僕もそんなことがあった . . . ような気がする」
何のことか分からないのに、「そうなのだ」と言わんばかりに体の血液が巡る。
何か忘れたとして、それがつらい事なのであればそれで別にいいか。それでいいのだろうか。
その〝彼女″と呼ばれている誰かは、ちゃんと忘れたいことを消せたのだろうか。
午前4時の鐘が街の中心から響いてくる。辺りが青白い光に包まれて、街が夜明けの準備を始めている。が、きっと今日は日が昇らないだろう。
今日も、僕以外誰も手に取らない無題の冊子の上に埃が積もる。またつまらない小説の第一章が繰り返される予感がしていたが、もうすぐそれが確信に変わってしまいそうだ。
僕は知らない隣人と「おやすみ」を交わした後、それを裏切って机に向かった。震える手でペンを持つ。
足りない僕は、代わりに詩を書き続ける。そうしないと死んでしまうと思った。自分の心を零さず掬う歌を。第一章を超えるため、この夜を超えるための唄を。これから先のいくつもの死にたい夜に、ただ寄り添う唄を。
現実を夢に持ち越して、その夢をまた現実に持ち越して、延々と創作し続ける。息が続く限り創作は続く。どれだけ書いても溢れ出るそれが、今こうして指を動かしている。
一年以上は替えられていない埃の被った弦を乾燥した指で弾けば、紺色のインクで満たしたペンを走らせれば、僕はどこへだって行けた。
咳き込みながらでも、自身の嗚咽さえも旋律として。溢れたもの、または零れそうになった感情を。これからの景色と温度を。飛び散ってしまった夢と残りの想いを、出来る限りかき集めて消えないように記す。そうひそかに決意した明け方だった。
一曲作り終えた後、疲れ果てて眠りに就く。それからもうあの夢を見ることはなかった。代わりに自分の創作の世界に飲み込まれて行ったのだが、僕にとってそれは幸せそのものだった。
待ってくれない朝日なら、もう一度昇るまで休めばいい。
もし夜が明けなくても、きっと大丈夫。
今日も自分に言い聞かせる。
きっと合ってる。
きっと合ってる。


